2013.12


2013.12.27西直樹のポリフォニックの世界(コラム星野裕成)

 

天才ピアニストと呼ばれるピアノ奏者は古今東西、数を数えれば枚挙に暇がないほど多く存在する。筆者が認めるだけでもクラシック分野においては、W・バックハウス、V・ホロビッツ、S・リヒテル、A・B・ミケランジェリ、近年ではM・ポリーニ、M・アルゲリッチといったところか(勿論これら以外にも夫々にとっての“この人”こそは、という天才ピアニストがいるであろう)。取り敢えず筆者の嗜好により、咄嗟に思いついたピアニストを挙げたまでのことに過ぎず、他意はない。

筆者がここで述べたいのは、誰が天才であるかということより、天才ピアニストと云われる多くのピアニストは“天才”と呼ばれることに対し、非常な違和感を覚えたり、逆にむしろ迷惑と感じているという点にある。何故なら彼等はステージで演奏するために、その何倍にも及ぶ時間を割き、人が見ていない中で黙々と練習しているからである。それは天才とは無縁の、単調にして、ただひたすら地道な努力を積み重ねる平凡な姿に見える。

リヒテルがモスクワの自室の狭いアパートで、ピアノを練習している貴重な映像が残されている。そこでは頭を抱えながら「・・・・しまった、しくじった・・・・」と独り言を漏らし、同じところを必死の形相で何度も弾き直している姿が映し出されている。リヒテルの凄いところは、他のピアニストなら絶対に見せたくないこうした映像を平気で撮らせるところにある。そこが天才・リヒテルの真骨頂とも言える。それはステージで見せるリヒテル最高のパフォーマンスを維持するため、日々こうした地道な研鑽を重ねている姿を堂々と公開できる天才特有のパフォーマンスと見てとれるのである。

しかし我々凡人にとっては、こうしたピアニストの孤独な戦いの連続が同じ人間でありながら、天才とは切り離された、別個の世界と錯覚してしまうのである。

 

日本の天才と呼ばれるピアニストのひとり、中村紘子はこうしたピアニストたちを自らも含めて“ピアニストという蛮族がいる”と揶揄している。たったひとつのフレーズのために何時間、何日も費やすピアニストを異常で野蛮な人種と捉えており、中村紘子自身の口から発せられるため、非常に説得力をもつ。筆者が中村紘子を天才ピアニストと評価する理由は、彼女の録音した、ショパン・ノクターン全曲集にある。ここでは詳しく述べないが、要はこの曲集は他のピアニストがなし得なかった、ショパンの本質に最も迫った演奏を達成したからである。

かように世に喧伝される“天才ピアニスト”達は見えない敵と日々悪戦苦闘しているのが実情なのだ。しかし彼等天才の天才たる所以は、それをむしろ快感にしてしまうことにある。我々凡人ではすぐ逃げ出してしまうような試練に、苦笑しながらも真っ向から立ち向かう勇気と気概を彼等は有しているのである。

 

前置きが長くなったが、ジャズピアニストの分野にも、天才と呼ばれる人がいる。古くはV.ホロビッツがその超絶テクニックに舌を巻いたというアート・テイタム、奇才バド・パウエルとその師匠セロニアス・モンク・・・・・・白人ピアニストのビル・エバンス、他にも沢山いるだろうが、近年では・・・・・ウーム・・・・・筆者には思い浮かばない・・・・・。

しかし一人、忘れてはならない、どう考えても天才としか云いようのないジャズピアニストが今日、わが日本に存在する。その名こそが西直樹である。前述のピアニスト中村紘子は西直樹と知己があり、西直樹の演奏を称賛している。しかも頻繁に世間に露出しないため、滅多にリーダー生演奏の聴けない、希少価値の高い存在といえる。

西直樹が他のジャズピアニストと際立って異なる特徴はジャズでありながらポリフォニックな演奏が出来る、そしてそれをジャズに応用している、という点に尽きる、と考える。その上で、印象派に通じる幻想的な曲想を持ち、比類なき美しいピアノタッチ(この場合の美しいピアノタッチとは、重力で鍵盤を叩くことではなく、重力に逆らって鍵盤を引き上げることによって濁りのない、軽快な音を引き出すことの出来るピアノタッチを指し、いわばスタティック・バランスではなく、ダイナミック・バランス=腕を一定の高さに保持したまま、指の上下のみによって弾く事=によってもたらされる音である。西直樹を含む、さきに挙げたクラシックの天才ピアニスト達共通の特徴は、このダイナミック・バランス奏法が可能なことである。その証拠に見よアルゲリッチの二の腕の太さを!!)さらには超絶技巧のテクニックをも持ち合わす、ジャズでは他に類を見ないピアニストである。

余談ながら、西直樹のテクニックはそればかりではない。西直樹の天才性は弱音ペダルの扱いにも窺われる。その恵まれた体格と、指の強靭さから、通常は微妙な加減による弱音ペダルを使用し、一鍵盤3本の弦は使用しない。2本の弦だけで充分である。開放弦はごく僅かな最高潮に達する時のみに使用しているのである。それと引換えに得られる抑制された音の美しさは比類ない。

ポリフォニック奏法とは、17世紀のバロック時代に活躍したJ.S.バッハやF.ヘンデルの作品に代表される、両手の10指だけで3~5声に及ぶ複数声部の対位法による曲(フーガ、カノン等)を演奏する、非常に難しい演奏法を意味する。しかしバロック以降、18世紀に入ると市民階級の台頭により、それまでの余りに堅苦しく感じた曲に対し、平易にして自然な曲風を好むようになり、次第に廃れていった。そして主メロディーを主に右手に担当させ、左手は和音やアルペジオによる伴奏を主体にしたホモフォニック奏法が主流となる。

通常、現行のジャズのピアノ奏者は大半がホモフォニック奏法で演奏している。即興を主体とする演奏にポリフォニーを持ち込むのは非常に困難だからである。殆どのジャズ奏者は右手だけで演奏している、といって過言でない。無論それでも数々の名演は生まれているのは事実だ。しかしそれだけではやがては平板な演奏に陥る可能性が高い。そこで西直樹は全ての指を有効に使うべく、この困難なポリフォニック即興演奏をジャズに持ち込んだのである。

本場アメリカにおいてもポリフォニック奏法を模索したグループがある。MJQ(モダン・ジャズ・クアルテット)がそれで、対位法を用いた曲を積極的に演奏している。ただしピアノのジョン・ルイスはシングルトーンで、1声のみを担当し、メインはミルト・ジャクソンのバイブ、通奏低音をベースのパーシー・ヒースに各声部を与えている。

西直樹の演奏は左右どちらの手からも、またどの声部からも美しいメロディーラインが飛び出し、しかもポリフォニックでありながら、ジャズ奏法として自然に融和しているのが特徴である。音の厚みを表現できる多声法はジャズにおいても非常に有用であることを証明している。しかし聴く側は西直樹の多声的表現を瞬時には中々理解できないであろう。

ある時、筆者は西直樹のその「天才」性を目の当たりにする現場に偶然にも居合わせることができた。

その時、西直樹は自室兼スタジオで、キーボードでちょっとした即興演奏を聴かせてくれた。キーボードはコンピュータに繋がれていて、その場の演奏結果は譜面化される内蔵ソフトが即、楽譜としてモニターに映し出す。その時の演奏はいつも西直樹のライブで聴くことのできる流暢にして洗練された即興曲であった。ところがその場で創りだされた譜面を見て驚愕した。なんと見事な5声のポリフォニーのジャズ楽曲が仕上がっており、しかも十数小節に及ぶ完璧な譜面であった。

余談ながら、ポリフォニーの即興に関して、思い出されるのは、今から266年前の1747年、プロイセン王国(現、ドイツ)、世紀の天才と謳われたJ.S.バッハがプロイセン王国のフリードリッヒ大王を首都ポツダム・サン・スーシ宮殿(ロココ様式の建築の最高傑作=世界遺産)に訪ね、大王の示した下記主題をもとに、その場で華麗な即興演奏を披露したという、最高峰のポリフォニック器楽曲が誕生した歴史的な出来事である

王の提示したテーマはごく平凡なものであったが、用意されたジルバーマンのフォルテピアノによりバッハは数々の驚異的な変奏即興を披露した。しかしさすがに王からリクエストされた6声の曲はバッハ自身、その場での演奏はままならず、後にあらためて書き直した6声のリチェルカーレ(Regis Iussu Cantio Et Reliqua Canonica Arte Resolutaの各イニシャルを連ねた語句=RICERCARE)を含むカノン他、全曲を煌びやかな装丁本に仕上げ、あらためて王に献呈し直したという、これが世に名高い、バロック音楽、バッハの畢竟の名曲「音楽の捧げ物(BVW.1079)」の誕生秘話である。

ここで言いたいのはいかに多声曲を即興で演奏するのが困難であるか、大バッハといえども6声の即興を弾くのは容易ではないということである。

西直樹はそれをいともたやすくジャズ演奏において実践していたのであるが、ジャズ演奏家のなかではキース・ジャレットもクラシック曲を器用にこなすが、ジャズの即興においてはポリフォニーでは演奏しない。

ポリフォニーの演奏は豊かな表現をもたらすが、ややもすれば多くの音を盛り込み過ぎて、却って音楽本来の美しさを阻害してしまう危険性がある。バッハの死後、バロック音楽が急速に衰退していった原因はそこにある。

西直樹はそうしたリスクを犯すことはない。そのテクニックは伝家の宝刀として、滅多やたらに抜いたり、振りかざしたりすることはない。しかしいったん抜くと、手のつけられない超絶技巧のテクニックを見せつけることになる。

 

リーダーアルバムを何枚もリリースしている西直樹であるが、その“天才”性を示す一つの例を2002年に発表されたアルバム「JAZZY BREEZE」に見出すことが出来る。このアルバムは誰もが知っているJ‐POPSや日本歌謡のヒットナンバーをテーマにジャズアレンジしたものである。ジャケットの雰囲気やプレイナンバーから、巷によく出回っているイージーリスニングCDと勘違いしてしまうリスナーも多いことだろう。しかしこのアルバムは他に類を見ない、とんでもない日本ジャズの歴史的名盤といえるものなのだ。

 

ジャズの格言に「ジャズに名曲なし、名演奏あるのみ」というものがある。これはジャズのテーマはミュージカルナンバーや、ポップスのヒットナンバー、映画音楽のテーマ曲から採られる場合が多く、音楽ジャンルを問わない、しかし取り上げるのはテーマ曲からのごく一部分のみで、あとは自らの即興アレンジと演奏技術だけで成り立つことを意味している。ジャズ奏者自身によるオリジナルテーマ、一例を挙げれば、マイルス・デイビスの高名な「ソー・ホワット」にしても作曲者のマイルス・デイビス自身でさえ、その都度全く異なった即興演奏を行う。名演か否かはどの、いつの演奏か、ということになり、その評価軸は演奏技術プラス即興アレンジの妙、グループ構成の優劣等で決まるのである。

 

このことから「JAZZY BREEZE」のようにJ‐POPSからテーマを採ったとしても何ら不思議なことではない。要は演奏とアレンジ能力の高さ、メンバーの良し悪しでアルバムとしての価値が決定されるものである。

そうした観点から西直樹の「JAZZY BREEZE」を聴くと、西直樹の演奏技術の高さは勿論のこと、その優れたアレンジにより、埋もれていた原曲のもつ魅力をフルに引き出し、ポリフォニック技術により新たなジャズ作品として高次元へ進化させている。わが国でアメリカン・スタンダードの曲を何ら工夫もせず、マンネリ化した演奏でお茶を濁すジャズアルバムが氾濫する中、これまで省みられることの少なかったJ-POPSによるジャズアレンジは鮮烈であり、西直樹の冴えたピアノテクニックと相俟って、超一級のジャズアルバムに昇華したものである。

 

では具体的に何曲かピックアップして聴いてみよう。

まず第1曲目の「卒業写真」は、かなりのスローテンポから入る。通常、二流プレイヤーほどスローテンポを嫌う。初めからアップテンポで弾きまくり、余計な音を付加し、いかに自分は上手かということを必死に主張したがる(→聴く側は引いてしまう)ものである。

しかし西直樹は全く意に介しない。この曲はスローテンポながら、基本3声(時に4声)のポリフォニーで厚みのあるアレンジとなっている。オープニング故、ゆったりした入りでリスナーに安心感を与える演出であり、西直樹の全アルバムに共通している。ライブ演奏でも全く同様に、西直樹は必ず非常にゆったりしたテンポから入る。自信がなくてはこうした導入部はなかろう。アルバムの価値を決定する、重要な要素はその第1曲目にあることを示しており、穏やかでありながら、質の高い多声奏法を高らかに宣言したオープニングである。

そしてこの曲の最終のコーダ部には心憎いような、西直樹の洒落た遊び心が用意されている。バロック様式のクラヴィーア曲の対位法によるエンディング・フレーズ(インベンションや平均律のような)がさりげなく奏でられ、静かに曲を終える。

 

同様に思い切ったスローテンポとした第8曲目の「木枯らしに抱かれて」が注目される。筆者はうかつにもこの曲の存在を知らなかった。このアルバムを通じて初めて知ったのである。驚いたのはそのメロディーラインの美しさであった。キース・ジャレットアレンジによるボブ・ディラン作曲「マイ・バック・ページズ」を彷彿とさせる切ないメロディーであり、ドビュッシー、ラベルといった印象派の様式を思わせる。オリジナルはアイドル歌手だった小泉今日子が歌っており、それをあらためて聴いてみると、その稚拙な歌唱力と、一本調子の中途半端なテンポにより、この曲のもつ美しいメロディーラインが感じられないものであった。西は超スローテンポにより、この原曲のもつ魅力を引き出している。アレンジとテンポ設定によってかくも美しく変化するのか、という好例である。4声に及ぶ重厚なポリフォニックアレンジ。この曲のアレンジは、ラベルの「ボレロ」と同様の、短いテーマを次々に変奏を繰り出していく手法で、凡庸なアレンジだと単なる繰り返しの、平板な曲になってしまう難しいアレンジ手法といえる。しかし西直樹は一つひとつ変奏の性格の相違をくっきり浮き彫りにし、特にサビには大胆な超低音による連打を伴う声部を付加し、非常に厚みのあるアレンジに仕上げている。そしてア・テンポにより、もとの静かなテーマに戻す流れは心憎いばかりである。これこそこのアルバム中、筆者の最も評価する、白眉のナンバーである。

ここで思い出すのは、グレン・グールドのアルバム、J.S.バッハの「ゴルトベルク変奏曲(BVW.988)」である。遅いテンポは極端に遅く、速いと決めた曲はとんでもない速さで弾ききる。元々バロック時代の曲はまだ速さの指定はく、奏者の感性に任されている。それを逆手にとり、グールドの演奏は極端に速さを変えて各々の曲の個性を際立たせる。しかし共通しているのは困難な各声部の独立性を決して曖昧にせず、声部の違いをくっきりと描出させることに成功している点で、グレン・グールドも天才のひとりに加えてよいだろう。余談だが、バッハの曲を殆ど録音しているスビャトスラフ・リヒテルが「ゴルトベルク変奏曲」だけは一度も録音することがなかった。それはこのグレン・グールド盤を聴いたからだと伝えられている。

この緩急・自由自在のテンポ設定こそが「JAZZY BREEZE」の真髄ともいえる。

 

第5曲の「Mr.サマータイム」はコーラスグループ「サーカス」最大のヒット曲である。西直樹は「サーカス」の専属アレンジャーを務めている関係で、ここではなんと「サーカス」4人のメンバーをインストゥルメンタルのバックコーラスに据えている。いわゆる主客逆転である。信頼ある西直樹だから出来る芸当であるが、この演奏により、「サーカス」の本来持つ、ハーモニー能力の高さを浮き彫りにさせる結果となった。他では絶対聴けない貴重な演奏である。サーカスのスキャットを4声のフーガのように使う、ポリフォニックアレンジ手法を採っている。西直樹の非常に素早い、パワフルなピアノ演奏が全開する。そしてここではジャズピアノを学ぶ人にとってそのタイミング、奏法が非常に勉強になる、お手本のような「グリッサンド」を4回も聴くことができる。他の曲にも「サーカス」が参加しているが、あらためてそのコーラスの美しさを実感できる。

 

第7曲の「Sweet Memories」には故・本田美奈子がスキャットで参加している。残響特性をたっぷりとった情感溢れる録音で、ここでも思い切ったスローテンポとし、ポリフォニック・アレンジの真髄を聴くことができる。アカペラよる本田美奈子の囁く様なスキャットから始まる。本田の声がまるで天国から優しく語りかけているような錯覚を感じさせ、涙なくしては聴くことができない。生前、西直樹を実の兄のように慕っていた本田美奈子の美しも、やるせない声がこだます。この頃、本田は新境地を拓くべく、次曲の全面アレンジを西直樹に依頼していた。しかしその後間もなく発病、夢を果たすことなく、3年後逝去した。この曲こそが筆者には本田美奈子の「白鳥の歌」としか思えない。

 

「JAZZY BREEZE」は表面的にはさりげない、あっさりとした佇まいである。しかしその実、聴けば聴くほど味わいを増す重厚なアルバムである。そこには西直樹のもつ「天才」性が存分に盛り込まれており、ジャズ奏者としての西直樹がその想いを惜しみなくこのアルバムに傾注したことを意味している。

 

筆者は西直樹の話しを聞くとき、その半端でない、知能レベルの高さに気付くのである。それを証明するかのように現在、西直樹は前代未聞・前人未踏のジャズピアノ理論講座「ブルースのメロディー創作および即興演奏に対する考察」を展開中である。しかもこの凄い講座をインターネットで無償公開しているのである。その太っ腹ぶりに驚かされる。

西直樹の実演奏映像による講義、画面に解説が載り、しかも演奏が聴ける譜面が添付されるなど、分かりやすく、本格的な講座形式となっている。西直樹は毎深夜、黙々とこの創作作業を重ねている。“ピアニストという蛮族”の面目躍如といったところだ。これを創作する労力は並大抵ではないであろう。しかしその全貌が完遂するのはいつになるか分からないと西は言う。しかし「天才」西直樹はこの気の遠くなる作業を、その持ち前のねばり根性によって、やり遂げることであろう。

我々凡人にとって目撃できる天才の閃きは、そのわずか一瞬の出来事に過ぎない。しかしその一瞬の衝撃度は想像を絶する巨大なものである。

思うに、天才を語る側は非天才である。非天才はただ真の天才のごく一部分しか体感できないものである。必要なことは自らの想像力を駆使して、その全容の大きさを、凡人なりに感じとることの出来る感性を養うことに他ならない。それこそが凡人としての生きる道である。

かつての天才、バッハ、モーツァルト、ベートーベンと時代を同じくし、彼等の音を実際に聴く事のできた人々に筆者は限りない羨望を感じる。

しかしがっかりすることはない。今日、西直樹という、リリシズムとダイナミズムを併せ持つ規格外のジャズピアニスト(自身のHPには『パワーと癒しと笑いの3面を兼ね備えるピアニスト』と記している)と時代を共有していることはなんと幸運なことか。(星野裕成)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

同様の事象を19世紀末のドイツ・バイエルン王国に求めることができる。時の王ルートヴッヒⅡ世は、毀誉褒貶の多い作曲家リヒャルト・ワグナーに傾注する余り、莫大な国費を使ってノイシュマン・シュタイン城を造築、城中にワグナーの楽劇「タンホイザー」の壮大な舞台をそのまま再現し、ワグナーを招聘しようとした(しかしワグナーは来なかった)。それだけでは飽きたらず、更にリンダー・ホフ城、ヘレム・ギームゼー城と3つもの考えられないような壮麗な城を造り、さらにワグナーの願いにより、バイロイト祝祭劇場を造った。このため国費は破綻に瀕した。当時ワグナーの価値はまだ必ずしも定まっていない時代であった。周囲の反対を押し切ってルートヴッヒⅡ世はワグナーの擁護を貫徹した。ワグナーの真価を確信していたからだ。しかし王の取り巻きはルートヴッヒⅡ世を狂王と非難し、王位を剥奪し、自殺に追いやった。しかし結果、バイエルン王国は国家予算を戦費にさし向けることなく、軍国化出来なかったため、皮肉にも戦火に晒されることを免れ、王が築城した3つの城は無傷で温存された。今日、残された3つの城はドイツ最大の観光収入源となっている。余談ながらルートヴッヒⅡ世は、生存していれば日本の「姫路城」を模した第4の城「ファルケン・シュタイン城」を築城する予定であった。このことは真の国益とは何かということを我々に問いかけている。

ルートヴッヒⅡ世は天才リヒャルト・ワグナーと同じ時代に生きたことを最大の喜びと感じていたのである。

過去の、そして既に評価の確定した天才芸術家を賛美することはたやすい。しかしそれを同時代の芸術家に求めるにはそれなりの知見と勇気を要す。時の天才は、あまりに時代を超越しているため、その時代には真価が理解されず、四面楚歌となる。その“天才性”に時代が追いつく為には、かなりの時間を要するからである。

 

(2013/11/25脱稿 星野裕成)